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[解説]
<「傳 山崎次郎」の別編として、無数に保存されている絵葉書、サイン帖などの資料の中から
摘出するものであるが、前記、「傳」とも何れも10MBに制限する積りである。
「傳」ならびに「傳2」とは別に続編として「傳 山崎次郎の余生」10MBを作成、
俳句、絵画制作三昧の余生資料を収録する。三部作。>
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絵葉書集
<「吉田茂」 「重光葵」> 「芦田均」 「廣田弘毅」 「松平恒夫」 「来栖三郎」 「澤田節三」「松井石根」各氏よりの来信絵葉書(クリックしてみてください。)
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明治45年(1912年)山崎次郎はマドリッド、スペインに駐在した。 (クリック)
そこには堀口九萬一氏がおられ、ご子息 堀口大学氏がおられた。
次の絵葉書は山崎次郎がマドリッド離任後に両氏より寄せられたものである。
表(ZARAGOZA)
(内山君とあるのは後に神奈川県知事になられた内山岩太郎氏のこと。)
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1914年
山崎次郎
LYON領事時代
山崎次郎がリヨンに着任したのは、サラエボの凶変の直前でした。
1914年(大正3年)6月26日着任、サラエボ凶変6月28日、第1次世界大戦勃発7月28日
Lyon 風景
(CLICK)
六月二十八日
オーストリヤ皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がバルカン半島の属地ボスニアのサラエボでセルビアの民族主義の青年によって射殺されたのがきっかけで
七月二十八日
オーストリアはセルビアに宣戦布告、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告。
第一次世界大戦えと拡大した。
日本は日英同盟のよしみを理由にドイツに対して宣戦を布告した。
九月四日
ドイツのウイルヘルム二世はルクセンブルグに大本営を進め、騎兵の先鋒はパリから50キロの地点まで迫っていた。
フランス政府は一時ボルドーに移り、パリ市民に避難命令を出した。
邦人の多くはリヨンに避難した。
○[以下は 6月25日付に始まる
リヨン時代のサイン帖
より。]
「大正三年八月十二日
独逸某都を落ち銃剣閃く独瑞国境を越え里昂に入り山崎護民官の下にほっと一息つく----」
八月末から九月にかけて
陸軍歩兵少佐 松井石根 他の方々
1914・10・08付け下記サイン
滋野男爵・フランス歩兵大尉・(飛行隊付き)
(クリックすると絵葉書が出ます。)
1915・01・24
1915・03・24
1915・05・26
1990・01・30 平木國夫著 | [バロン滋野の生涯] | パリの空を飛んだ日本人 |
発行・文芸春秋 | 日仏のはざまを駆けた飛行家 | 日本最初の民間飛行家 |
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1918・06・06 New York |
〜07・10 Buenos Aires(35days) |
アルゼンチン・タンゴの印象 | |
はるかな国 | とおい昔 |
南米航路・船長の記帳 | |
坦々たる広大な草原 | |
矢崎画伯のサイン
南米航路・ラプラタ丸
○
1925年1月日本 ソヴィエト連邦を承認。
7月田中都吉大使、山崎次郎大使館参事官等大使館員1団、シベリヤ鉄道にてモスコウえ赴任。
鉄道沿線の各駅では軍楽隊つきの歓迎を受けた。
その間の写真多数。(リンク未制作)
モスコウ着任の写真。(傳 山崎次郎)
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2003・10・29